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白島歴史さんぽVol.3 [イベント]

5月19日(日)
さかのぼりブログ第二弾。
一か月半前の「白島歴史さんぼVol.3 船から見る「水都広島」の歴史 ~川から見ると違う広島が見えてきた」イベントの様子です。
画像(動画)多め。
時間が経過しずぎて間違っていたらすみませーん!

本日の安全祈願に朝一で碇神社へ。
碇神社.jpg


お天気が毎回心配な屋外のイベントですが晴れて良かった。
集合場所にて。
参加者の皆さんよろしくお願いいたします!

集合場所にて.jpg

今回は総勢20名の参加者の皆さんと2グループに分かれ雁木タクシーに乗っての白島歴史さんぽ+広島の歴史といった感じで前回よりも更に本川町や原爆ドーム辺りまで約1時間のクルーズ予定です。
今回のレジュメも参考に進んでいきましょう。
※レジュメ・画像もクリックして頂けると大きなサイズになります。

白島フィールドワーク3レジュメ-1.jpg

白島フィールドワーク3レジュメ-2.jpg

第一グループ乗船.jpg

第一グループ出発前3.jpg

第一グループ出発前.jpg

第一グループ出発前2.jpg

第2グループ出発2.jpg

第2グループ.jpg

1.工兵橋
明治 22 年(1889)、白島町北端(現在の安田学園白島キャンパス付近)に駐屯していた 「陸軍工兵第 5 連隊」と京橋川の北岸に所在した牛田の演習場の連絡橋として工兵隊の手によ り木橋が架けられました。これが初代の工兵橋であり、橋名の由来です。この橋は大正 8 年 (1919)7 月洪水により落橋し、大正 10 年(1921)に現在の吊橋の形となりました。そ の後昭和 8 年(1933)に架け替えられています。



工兵橋.jpg



2.一本木の鼻
江戸時代、白島の北端には1本の大木があり、そのため「一本木の鼻」と呼ばれていまし た。一本木の鼻周辺の堤防はしばしば決壊しており、城下町に被害を与えていました。この堤 防をより強固なものにするため、藩は修繕の際に地元の人々を堤防上で躍らせました。やがて この踊りは定例化し、毎年旧暦の盂蘭盆7月15日・16日の両夜に行われるようになりまし た。これは「両夜踊り」あるいは「一本木踊り」と呼ばれています。 派手な盆踊りなどが禁止されていた広島城下にあって、この一本木踊りは藩の命によって 始まったものとして賑やかに行われていましたが、明治時代以降衰退しました。 なお、江戸時代に架けられた神田橋は、最初一本木の鼻から牛田村神田(現在の牛田本町6 丁目・牛田新町1~2丁目付近)に架けられていたためこの名が付きました。やがてこの場所 で大水が多いため現在地に移転しましたが、名前はそのまま引き継がれました。




3.サギ島と砂州
通称「サギ島」は本川と京橋川の分岐点に形成された砂州で、今は様々なサギやカワウの群生 地になっています。江戸時代の絵図をみると、この場所にはさらに大きな砂州があったことがう かがえます。 太田川は上流域から大量の土砂を運んでおり、流れが緩やかになる場所-特に河口付近の海 岸線には土砂が堆積し、砂洲を形成しました。こうした砂洲をベースにして江戸時代・明治時 代には干拓が、大正時代以降には埋立が行われ、広島の土地は拡大していきました。 また、川底にも土砂が溜まりやすかったため、江戸時代には川底を定期的に掘り浚えて、航 路の水深を維持していました。







サギ島.jpg

サギ島2.jpg

サギ島3.jpg

サギ島4.jpg

サギ島近く.jpg

4.長寿園
長寿園は白島の本川河川敷にあった桜の名所です。明治43年(1910)に西白島町の村上長 次郎が東京から桜の苗木を取り寄せて植樹したのを始まりとし、大正末期には広島一の桜の名 所として知られました。やがて対岸にも桜が植樹され、昭和に入ると太田川をはさんで両岸に 桜が咲き誇るようになり、多くの人が船を出して花見を楽しみました。しかし、昭和10年代 後半に衰えが見え始め、戦後の都市復興のなかで姿を消しました。 4の地点には昭和9年に建立された長寿園の記念碑が建っています。


広島ホームテレビ社屋の川側に長寿園の石碑はあります。
お散歩がてら見に行ってその昔、桜の名所だったことを想像してみてください。
現在も桜並木がきれいな桜スポットです。
私も毎年楽しみにしています。




5.史跡広島城内堀への取水口と6.出水口
明治以降広島城の堀は徐々に埋め立てられ、現在は内堀を残すのみとなっています。かつて は本川から水を取り入れ、人工の運河平田屋川(現在の並木通り・地蔵通り)から海に向かっ て排水していたのですが、内堀だけになってからは水が循環せず、戦後になって水質の悪化が 問題になりました。そこで、内堀に太田川の水を循環させる工事が行われ、平成5年(199 3)に竣工しています。5の位置で太田川の水がポンプでくみ上げられ、中央公園北側のせせ らぎ河川を通って、最終的には広島城の裏御門付近にある吐出口から堀に入ります。水は堀の 南西隅にある流出口から出て、中央公園南側のせせらぎ河川を通って、6の出水口から本川に 戻ります。水は3日半で内堀の中を循環しています。
白島フィールドワーク3レジュメ-4.jpg
※イラストの右下に二つぴょこんと飛び出しているのが水制工(水はね)です。
今も2つありますのでお近くに行かれたら空鞘橋から相生橋までの子供文化科学館側の河川敷を見てみてください。
グーグルマップでもアップにすると2つの水制工(水はね)が確認できますよ。

基町高層アパート2.jpg

5.取水口6.出水口.jpg
※図書館で借りた書籍「川のまち がんばれ広島の太田川」より引用。
太田川の水は上の青い線の経路で川から約700m行き、お城の入り口からかかる橋から堀に入ります。堀の水は全体で約7万トンだそうで、1日に2万トンの水を太田川から取っているので3日半で堀全体の水が入れ替わる計算です。
堀側の出口は南西角あたりにあり、約500m行って空鞘橋のそばの中国庭園・渝華園(ゆかえん)の北側で太田川に戻ります。(赤い線)

※中央公園の中にせせらぎ河川が確かにありますねーっと参加者の皆さんも改めてそれが広島城のお堀の水が流れていることを知られていたようでした。
今まで何気なく通っていましたが知ってみると「へー!」ですね。


5.史跡広島城内堀へり取水口.jpg
・史跡広島城内堀へり取水口
水しぶきをあげているので、お堀の水が出てくるところだと勘違いしそうですがここから広島城へ水が入って行くのです。


6.出水口



6.出水口2.jpg
上の動画に映っています黄色い丸でマーカーしたところが出水口。




7.基町環境護岸
範囲は相生橋から遡って880メートルの本川東岸です。昭和 27 年( 1952)の都市計画で、 この地区一帯は中央公園として整備されることになりましたが、河川敷は市民によく利用され親 しまれていることもあって、よりレベルの高い整備が求められました。直線的な都市景観の中で、 河川がもつ特性である曲線が、玉石・植栽などの素材や、江戸時代に設けられていた水はね(水 制工)などを活用して表現されています。昭和 58 年(1983)に完成しました。

基町環境護岸3.jpg

基町環境護岸.jpg





今回初めて気づいたのですが元安橋の欄干に「元」って文字がデザインしてあるのにビックリ。
何度も通っているのに気づいてなかった[あせあせ(飛び散る汗)]
ボンヤリしすぎですね。



元安橋.jpg

元安橋欄干.jpg

8.原爆ドーム前の雁木
原爆ドーム前の大きな雁木は、そのルーツを江戸時代に求めることができます。ドームがあっ た場所には、広島藩の米蔵があり、藩領内から集められた年貢米が納められていました。舟によ って運ばれた米はこの雁木を使って荷揚げされていたのです。近代に入ってからも、舟運が行わ れなくなるまで、ここから物資が荷揚げされていました。

原爆ドーム.jpg

原爆ドーム2.jpg





9.本川橋西詰めの雁木
江戸時代、陸上輸送の手段が限られていたため、大量輸送は舟運で行われていました。三角 州上につくられた広島城下には多くの河川が流れており、当然舟運が活発に行われていました。 そのため物資が集まる城下中心部には、舟から荷揚げをするための桟橋が必用でした。ところ が広島の川は非常に干満差があり通常の桟橋では対応できないため、階段状の雁木が多く作ら れたのです。 本川橋西詰めの雁木は城下中心部に近いため、海から物資を輸送してくる舟が多く着岸する 城下最大の川港でした。今も舟繋ぎ石が残されています。
白島フィールドワーク3レジュメ-5.jpg


ズームした雁木と木々より右手の本川橋よりの雁木と木々が正解ですね。
私のズーム間違い[あせあせ(飛び散る汗)]

9.本川橋(緑).jpg
本川橋

9.本川橋西詰の雁木3.jpg
本川橋西詰の雁木

10.西本川浜恵美須神社(広島市中区土橋町)と常夜灯
神社は文政年間(1818~1829)の創建。水運が盛んだった当時、当地には万問屋などが軒 を並べており、その信仰を集めていました。 神社の上流側(北側)には灯台の役割を果たしていた常夜灯が設けられており、かつて多くの 舟が出入りしていたことが分かります。現在は同じ場所に新しく復元されています。



10.西本川浜惠美須神社.jpg
西本川浜惠美須神社

10.常夜灯.jpg
右側に見えるのが常夜灯

10.常夜灯2.jpg
常夜灯


中国新聞近く


本川橋から空鞘橋。
こう見ると雁木がこの距離だけでも4つありますね。
日本で一番雁木が多いのが広島だとある方から先日お聞きしました。
約300から400箇所もの雁木があると言われているそうです。

『雁木(がんぎ)』とは、飛行する雁の群れのようなジグザグに組まれた構造物。
護岸についている階段のことです。
広島県広島市においては近世以降に水辺に昇降するため川の斜面に造られた階段状の港湾施設および護岸。

石の階段が川岸に見えたらそれが雁木です。
こちらもつい見過ごしてしまいがちな広島の風景のひとつなのかもしれません。


11.広島城の櫓台跡
現在の広島城は内堀とそれに囲まれた本丸・二の丸を残すのみとなっていますが、かつては 広さ90万㎡(東西南北約1㎞)を誇り、3重の堀によって守られていました。太田川は天然 の外堀として利用されており、その東岸には城を守るために城壁と櫓が設けられていました。 5の位置(空鞘橋よりやや南側)には櫓台の一部が残されています。

12.水制工(水はね)
堤防から川の中心に向かって延びている構造物のことを言います。洪水時の速い水の流れか ら堤防を守るため、直接堤防に水がぶつからないように水の流れを中央方向に向けるように設 置されました。12の場所にあった水制工はとりわけ規模が大きかったようです。



12本川水制工.jpg


第2グループ相生橋.jpg


13.楠木の大雁木
楠の大雁木は江戸時代には幅5.5m 程度の規模で、渡し舟の船着き場として利用されてい ました。明治31年(1898)に横川駅からこの雁木近くまで山陽本線の支線が敷設され、舟 で雁木に集められた物資をここで列車に積み替えることが可能になったため、一帯は様々な物 資の集散場として発展しました。そして雁木は大拡張され、「大雁木」と呼ばれるようになりま した。今はその一部が残されています。

白島フィールドワーク3レジュメ-6.jpg



13.楠木大雁木2.jpg

13.楠木の大雁木.jpg



サギ島へ.jpg
帰路、サギ島が見えています。





第2グループは潮の関係で白島での下船は難しく広島駅まで行くことに。

工兵橋から白島方向へ.jpg
工兵橋から白島方向へ

縮景園を川辺方向から見れたのラッキーでしたね。
縦に石が組んである物は水門の開閉するものだそうです。
縮景園裏手.jpg

縮景園の裏手2.jpg

私は白島にて下船後、自転車に乗って第2グループを陸上からお出迎え。
皆さんお疲れさまでした!





第2グループ広島駅到着1.jpg


第2グループのみになりましたが猿猴橋をバックに記念撮影。
お疲れさまでした!
第2グループ記念撮影2.jpg

第2グループ記念撮影1.jpg

今回も大変お世話になりました雁木組の皆さんともここでお別れ。
雁木組.jpg

本日の白島歴史さんぽでお世話になりました「雁木タクシー」は2016年にNHKのブラタモリの広島編の時にタモリさん達が乗られました。
タモリさん達を案内されたのは白島歴史さんぽでも毎回お世話になっています広島郷土資料館の学芸員、本田美和子さんです。
今回で白島歴史さんぽでは2回目の雁木タクシーによるイベントとなりました。
本田さん、雁木組の皆さんありがとうございました!
またよろしくお願いいたします。

雁木タクシーに乗ってみたいな?と思われた方は是非下記ホームページからお問合せしてみたください。
「まずはお気軽にお問合せ下さい。」とのことです。
柔軟に対応してくださいますよ!
私もこのイベントがなかったら雁木タクシーの存在は知っていたものの乗る機会は中々なかったかもしれません。
広島の川がきれいであることも分かりました(笑)。
広島に住んでいても見ることのない新しい風景が広がっています。
広島の方も旅行で来られる方にもおススメしたい雁木タクシーでの広島巡りです。

『NPO法人雁木組』
http://www.gangi.jp/index.html




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